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アドラー心理学の個人的考察

 近年、べストセラー『嫌われる勇気』で注目を集めている心理学者アルフレッド・アドラー。アドラーは、有名な心理学者ジークムント・フロイトと一時は共に学びながらも、考え方の違いからたもとを分かち、独自の理論を展開します。ここでは、個人心理学とも呼ばれるアドラー心理学について、個人的な考察をしていこうと思います。


アドラー心理学の基本前提

 現在は、たくさんのホームページがアドラー心理学を解説しています。ですが、説明が丁寧で分かりやすいものもあれば、説明不足のために、思わず勘違いして理解してしまいそうなものもあります。説明が分かりにくいもので多いのは、たとえば、例をあげて説明していても、例文が非常に短く断片的で、前後の流れも不明なため(本当にそうかなぁ?...)と疑念を抱いてしまうものだったりします。そこで私(執筆者)は、自分の過去の実体験にアドラー心理学を当てはめて考えてみようと思い立ちました。

 その前に、まずは「アドラー心理学の基本前提」について概略がいりゃくを説明します。アドラー心理学の主な柱として、以下の3つの考え方があげられます。

アドラー心理学の基本前提の図
<アドラー心理学の基本前提>
  • 全体論
  • 目的論
  • 対人関係論

全体論

 人の中にある「意識と無意識」「感情と思考」「心と身体」などの間に矛盾むじゅん葛藤かっとう・対立などの構図こうずは発生しない。一つの目的を達成するために、それぞれが見事に連携れんけいしながら行動している。また、個人の創造性や主体性が、全ての思考や行動の根拠になっている。

※ つまり「無意識にやってしまった(だから私のせい・・ではない)」とか「ついつい感情的になってしまった(だからそんなつもりはなかった)」というのはあり得ない...ということです。無意識だろうと感情だろうと、あなた自身がちゃんと何らかの目的を果たすためにとった行動なんです。

目的論

 人の行動は、無意識や感情やトラウマ(心的外傷)などによってあやつられるようなものではなく、全て、現在や未来の目的を達成するために行動している。

※ たとえば「好きな人にフラれた(=トラウマ)から恋をしなくなった」のではなく「傷つきたくないという目的を達成するために恋をしなくなった」ということです。つまり、フラれた事実を「傷ついた出来事」ととらえた・・・・から(傷つきたくない)と思ったのであって、もしも「次に進めのサイン」ととらえて・・・・いれば(もう恋はしない)などとは思わなかった、ということです。ちなみに、アドラーはこのとらえ方・・・・のことを「意味づけ」と呼んでいます。

 人が行動する目的はすべて...

  • 生物学的に、個体保存こたいほぞん(生命の維持)・種族保存しゅぞくほぞん(家族や種族の繁栄)
  • 社会学的に、所属意識しょぞくいしき(社会の一員に加わること)
  • 心理学的に、貢献欲求こうけんよっきゅう(誰かの役に立ちたい)・承認欲求しょうにんよっきゅう(自分の存在を認められたい)
 の5つに集約される。

※ たとえば、危険な場所を避けるのは「個体保存」のためであり、一生懸命に働いたり(=家族を守る)溺れている人を助ける(=人の命を救う)のは「種族保存」のためであり、友だちをつくるのは「所属意識」を持つためであり、ゴミを拾ったりお年寄りに席をゆずるのは「貢献欲求」を満たすためであり、ワガママを言って誰かを困らせるのは、自分に注意を向けさせて「承認欲求」を満たすためである...ということです。その他にも、個人が自発的に行なう行動は、全て、これら5つのどれかに当てはめて考えることができるということです。

対人関係論

 全ての悩みや問題は対人関係から生まれる。対人関係を良好にすることが、目的の最終到達点であり、幸福の絶対条件である。

※ たとえば、お金が無くて悩んでいても、お金が無いと何が・・困るのかと言えば、友達と遊ぶお金がなかったり、恋人ができなかったり、周りの人たちにバカにされたり...といったことが困るのであって、(食べていける最低限のお金さえあれば)お札や硬貨・・・・・が無いこと自体が困るわけではありません。つまり、いくらお金があっても孤独だったら幸せではないし、たとえ貧乏でも友達がいて恋も順調なら幸せだと思える、ということです。そしてこれは、お金の悩みだけでなく、仕事の悩み・勉強の悩み・健康の悩みなど、人が抱く悩みは全て、元を正せば「対人関係の悩み」に集約される...ということです。

 対人関係を良好にするために、いちばん最初に理解し実践しなければならないことは「課題の分離」である。課題の分離とは、自分の課題と他者の課題を明確に区別し他者の課題にむやみに踏み込まないこと、自分の課題に他者を踏み込ませないことである。

※ たとえば、親が自分の夢を子どもにたくして、子どもの進路を勝手に決めようとしているとします。この場合、親が(子どもに)夢を託すかどうかは「親の課題」であり、(子どもが)進路を決めるのは「子ども自身の課題」である、ということです。この2つの課題をごちゃ混ぜにして、相手に押し付けたり、受け入れたりしてはいけない、ということです。つまり、この世の「おせっかい」「余計なお世話」と呼ばれるものは、全て課題の分離が出来ていないことが原因で起こるトラブルなのです。

 そして、対人関係において最終的に目指すべきゴールは「共同体感覚を持つ」こと。共同体感覚とは、以下の3つを満たしている状態のことを言う。

  1. 他者信頼たしゃしんらい…無条件に相手(他者)を信頼すること
  2. 他者貢献たしゃこうけん…自分が共同体(他者)の役に立っていることを自覚すること
  3. 自己受容じこじゅよう…自分の存在を肯定し、共同体の中に居場所を確保すること

※ 一般的に「共同体」とは「家族」や「学校・会社の仲間たち」や「同じ地域に暮らす人々」など、一つのグループとも呼べる単位で数えられる集団のことです。それら共同体の中で生きる私たちが目指すべきゴールは、一人でも心から信頼できる人がいること(他者信頼)、一人でも自分を必要としてくれる人がいること(他者貢献)、そして、できればそういう人が何人もいて、お互いに支え合いながら、自分自身を「かけがえのない存在」と認識できること(自己受容)である、ということです。このゴールを達成した状態のことを「共同体感覚を持っている」と言います。

過去の実体験

 ここからは、自分の過去の実体験を例文としていくつかあげていきます。それら一連の自分の行動をアドラー心理学に当てはめて考えてみると、今まで認識していた過去の記憶とは一味違った新しい過去が見えてきます。
(※アドラー心理学に当てはめた考察は、第3章以降に行ないます。この章では、従来の自分の認識に基づいた書き方になっております。)
 ちなみに、例文Aは、何事にも自信がなくて、人生に何一つ希望を持てなかった私(=筆者)が、本当の人生の第一歩を踏み出した頃のお話です。例文Bは、その数年後のとある・・・「恋愛がらみ」のお話です。

<例文A>人生のバースデイ

 あの頃の私は、とにかく周りの目ばかり気にしていました。悩みはとても深刻で、何よりも自分自身がとても大嫌いでした。この頃は、周りの目を気にし過ぎることに問題があるのではなく(そんなこと1ミリも思っていませんでした)自分の容姿(チビで老け顔)や性格(暗くて消極的)に問題があるとしか考えていませんでした。
 とにかく誰ともしゃべらない(しゃべらないというよりもしゃべれない・・・・・・)し、待っていても誰も話しかけてくれませんでした。周りの人たちは、みんな楽しそうにワイワイやっているというのに...。

 最初の頃は(何故みんなは自分を仲間に入れてくれないんだろう?)と、周りのせいにしていました。だけど、ときどき誰かが話しかけてくれたときに、とにかく口下手だった私は極端に緊張してしまい、モゴモゴしてしまったり黙りこくってしまって、まともに返答もできませんでした。一方で、そんな自分がいけないことも分かっていました。

 ある時期から「こんな自分を変えたい」と強く思い始めました。誰も話しかけてこないのなら、自分から話しかけていくしかないとも思いました。だけど、もしも自分から話しかけたりしたら、きっとみんなは、突然しゃべり出した私にビックリしてしまうんじゃないかと考えてしまうのです。
 うっかり話しかけてしまったら...「おっ、どうしたどうした? お前から話しかけてくるなんて珍しいな。そういう声してたんだ。初めて聞いたよ、はははは...。」...なんてリアクションが返ってきそうな気がして、怖くて怖くて仕方ありませんでした。

 あれは何月何日だったのか、日付もまだ覚えています。自分が発した言葉がどんな言葉だったのかも覚えています。相手のリアクションがどんなだったかも覚えています。とうとう恐怖心に打ち勝った私は、ついに自分からみんなに話しかけてみることに成功したのです。
 まさしく、最初の一歩を踏み出したあの日こそ、本当の意味での「人生のバースデイ」だと私は思っています。そして、新しく生まれ変わった私は、積極的で明るい人間へと、瞬く間またたくま変貌へんぼうげていくのでした。
<例文B>遅刻されるトラウマ

(それから数年後のことです...)
 同性・異性にかかわらず抜群ばつぐんのトーク力を身につけていた私は、ある女の子から好意を寄せられていました。すでに私の恋愛経験は主なものだけでも3人(軽いつき合いや短期間で終わってしまったものを含めると数え切れないほど)になっていました。とりわけ3人目の彼女は本当に大好きで、かなり真剣な気持ちでつき合っていました。ですが、残念ながら別れてしまい、それから3ヶ月後ぐらいの話です。

 自分に好意を寄せている女の子(Sさん)は、まったく好みのタイプではありませんでした。なので(相手を傷つけないように)遠回しに断ったのですが、Sさんはその後もくじけずに何度もデートに誘ってきます。その都度やんわりと断り続けていたのですが、そんなある日、彼女がいつもとは違う、ちょっと面白い・・・誘い方をしてきたのです。思わず「とりあえずデートだけなら」とOKしてしまった私でしたが、いいかげん彼女の一生懸命さに心がほだされ始めていたこともあり、デートの結果次第では(つき合ってあげても良いかな)とも考えるようになっていました。

 ところが、デート当日の待ち合わせに、彼女は10分ほど遅刻してきたのです。心の中で(そっちから誘っておきながら待ち合わせに遅刻するとは...)と、非常に気分が悪くなり、最終的に、その10分の遅刻を理由に、今度は遠回しではなくしっかりとお断りしました。Sさんは「少しでもキレイに見せたくてお化粧に時間がかかり、バスに乗り遅れてしまったから。」などと言い訳をしていましたが、そんなことは理由にならないと思いました。

 正直(たかが10分の遅刻で...私は厳し過ぎるのだろうか?)とも思いましたが、3ヶ月前に別れた大好きだった彼女は待ち合わせに遅刻してくることが多く、それでケンカしたことも別れの原因の一つだったことから、相手に遅刻されるのがトラウマになってしまったのだと考えました。そして、このSさんの一件以来、私はデートでの遅刻にとても厳しい男になり、(後から思えば)もったいない別れ方を何度も繰り返したように思います。

フロイト的解釈とアドラー的解釈〜全体論と目的論〜

 まず最初に<例文B>(遅刻されるトラウマ)を見てみましょう。

 当時から心理学には興味があり、フロイトに関する知識も中途半端とはいえ持っていたので、相手に遅刻されると極端にイヤな気持ちになるのを「トラウマ」だととらえていました。そして(トラウマなのだから仕方がない)と思い、絶対に遅刻しない女の子としか、まともにつき合えない状態になっていました。
 また、せっかくつき合い始めた女の子に遅刻されたとき、本当はそれほど怒っていないのに、ついつい文句を言ってしまい、文句を言ったことでますます怒りが増幅されていく感覚もあったように思います。ですが(トラウマは無意識によるものだから、意識でどう考えても無駄なんだ)とあきらめていました。
 また、いつか「遅刻されても許せるような相手」が現れたときに、初めてトラウマを克服できるのではないかとも考えていましたが、絶対に・一秒たりとも遅刻をしない相手などなかなか現われませんでした。

 結局、かなり後になって(自分の心に正直になろう。それほど怒っていないのであれば文句を言うのもよそう)と考えられるようになり、そこで初めて遅刻されるトラウマを乗り越えることができたのです。

  • 全体論…意識と無意識(感情と理性、精神と肉体など)は、それぞれ独立して存在するのではなく、互いに影響し合い補い合いながら「分割できない全体」として存在している。
  • 目的論…人は、過去の原因に動かされているのではなく「未来の目的」に向かって生きている。

 アドラーは「(フロイトの言う)トラウマ(心的外傷)なんてものは存在しない」と言っています。全てにおいて本当にそうなのかは少々疑問も残りますが、少なくても<例文B>における「相手に遅刻されることへのトラウマ」は大きな勘違いだったようです。

 アドラー的に解釈してみると、以下のようになります。

 そもそもSさんは「好みのタイプではなかった」ので、最初から「断る」のが前提にあったと思われます。しかし、くじけずに何度もデートに誘ってくる一生懸命さから(この子は尽くしてくれそうだ)という期待が生じ、だったらつき合ってみても良いかなと、彼女を査定さていするためにデートに応じたのです。
 ところが、彼女は待ち合わせに遅刻してきます。そして、遅刻の言い訳として「キレイに見せたくてお化粧に時間がかかったから」と言うのですが、それを聞いた私は無意識の中で(相手を待たせることよりも、自分をキレイに見せることを優先した)と判断し、(この子は尽くしてくれそうにない)という結論に至りました。その結果、彼女とつき合うメリットは一つもないと判断し、断ったというわけです。

 つまり、過去のトラウマ(らしきもの)には、遅刻されたときの不愉快な気分を増幅する効果こそあったものの、相手を振る・振らないには全く関係なかったのです。

 要するに、これは意識(振るという決断)無意識(尽くしてくれなさそう・好みのタイプではない)が見事に連携した結果の行動だったと言えます。これはアドラーの言う「全体論」に当てはまるのではないでしょうか。

 アドラーは「トラウマ(心的外傷)などというものはない。」と言い切っています。自分が痛い目に合った過去の出来事について、ただ単に同じ思いをしたくないからトラウマという都合の良い言葉を持ち出しただけであり、トラウマのせいにすることで自分の臆病おくびょうさに直面しなくて済む、というわけです。
 つまり、痛い目にあうのを回避するために逃げる決断をし、逃げるという臆病さに対する言い訳として「トラウマ」という言葉を引用しているに過ぎないのです。

 また、アドラーの「目的論」の見方で解釈を加えれば、Sさんとデートにのぞむときの私の目的は以下の2つだったと思われます。

  • 目的1=自分に尽くしてくれそうなら、つき合っても良い。
  • 目的2=そうでなければ、好みのタイプではないので、つき合いたくない。
 そして、彼女の遅刻とその言い訳によって「目的2」の方が選択されたわけです。けっして「トラウマ」という無意識の影響で「断る」という決断がなされたのではなく、自分に尽くしてくれなさそうだし、好みのタイプでもないので「つき合いたくない」という目的を達成するために私は断ったのです。

ライフスタイルと課題の分離

ライフスタイルとは?の図
 アドラーは「対人関係論」の中で、対人関係を良好にするポイントの一つに課題の分離というものをあげています。

 次に<例文A>を見てみましょう。

 周りの目ばかり気にしていたあの頃の私は、そういった生き方(周りの目を気にする生き方)しか知りませんでした。その結果、容姿による劣等感(チビ・老け顔)から、なるべく目立たないように極めておとなしい性格を形成していました。

 おとなしく目立たないようにしていれば、リアルタイムに感じる劣等感を最小限に抑えることができます。アドラーの目的論で説明すれば、これはつまり、劣等感をなるべく感じないことを目的とした性格形成がなされたとも言えるでしょう。

 ちなみに、この「性格」という言葉を、アドラーは「ライフスタイル」と呼んでいました。

 人には、生まれつきの性格などというものはない。あるのは、いつでも簡単に変えることができる「ライフスタイル」のみである。

 友達だってほとんどいませんでした。何しろ、自分から積極的に誰かと関わることが出来ず、チビという劣等感を刺激して欲しくもなかったので、相手から積極的に関わってくる人間であり、かつ、自分と同じくチビである人間でなければ、友達になることはできなかったのです。(そんな人とは、そう簡単に出会えるはずもありません。)

 つまり、自分から能動的(積極的)に他者にかかわるのではなく、周りが自分にかかわってくれるのを待つ受動的(消極的)なライフスタイルも形成していたわけです。当時の私の「受動的・消極的なライフスタイル」は、アドラーの言う課題の分離が出来ていない典型的な例とも言えるでしょう。

 他人の課題と自分の課題は別であることをしっかりと認識し(課題の分離)、他人の課題にむやみに踏み込まず、他人にも自分の課題に踏み込ませない姿勢で臨まなければならない。そうやって、お互いに自立心を持った上で協力し合うことが大切である。

 例文Aで言えば、

  1. もしも自分から話しかけたとき、みんなが「おっ、どうしたどうした...」というリアクションをするかどうかは...相手の課題
  2. みんなからの(予想される)リアクションに対する恐怖心を克服できるかどうかは...自分の課題
  3. 「どうしてみんなは自分を仲間に入れてくれないんだろう?」と思っている自分に対して、みんなが自分に話しかけてくれるかどうか・みんなが仲間に入れてくれるかどうかは...相手の課題
  4. 自分が、みんなから「仲間に入れてあげたい」と思われるような人間になることは...自分の課題

 ということになります。

 もちろん、当時はアドラー心理学のことも課題の分離のことも全く知りませんでしたが、私はあの時、恐怖心を抑えて勇気を振り絞り、自分からみんなに話しかけてみたのです。みんなは意外と自然に応対してくれました。そして、このことが、私が人間関係において「受動的な姿勢」から「能動的な姿勢」へとライフスタイルを書き換える第一歩となったのです。

 自分のそれまでのライフスタイルを書き換えるときには、必ず「勇気」というものが必要になります。ですが、この「勇気を出せたこと」自体が「自分で自分の形を作り変えていく快感」をもたらし、最終的に「自分自身への揺るぎない自信」へとつながっていくのです。

 その後も、私は自分からみんなに話しかける「能動的な姿勢」を続けました。最初の頃はそのたびに勇気が必要でしたが、次第にあまり勇気は必要なくなり、最終的にはほとんど自然に話しかけることができるようになりました。
 ただし、結果的にみんなが私を仲間と思ってくれるようになったかどうかは微妙なところでした。やはり、それまで長い間みんなに与え続けていた「おとなしいイメージ」は、そうそう簡単に払拭ふっしょくできるものではないのかもしれません。だけど、それでも私は大満足でした。自分自身の意思と力で「望んでいた自分(積極的な人間)」に変身することが出来たのですから。

 あらためて、アドラー心理学を頭に入れて自分の過去を振り返ってみたとき、この頃の自分の「変身」こそが課題の分離の典型的な例だったのではないかと思えます。

Mちゃんの微笑み事件

<例文C>(M子ちゃんの微笑み事件)

 その後の私は、興味のある人には自分から積極的にかかわっていくような人間になっていました。いちばん最初に自分から話しかけたときに比べれば、必要な勇気は微々たるものになりましたが、それでも、時と場合と相手によっては、それなりの勇気が必要だったりもします。ただ、そのドキドキ感を楽しんでいる自分もいて、毎日がとても楽しく充実したものになりました。ただ、この頃の私はまだ、さほど興味のない人とはあまり関わろうとはしませんでした。

 ある日、それまでさほど興味もなかった「Mちゃん」という女の子が、学校帰りの昇降口で、いきなり私に挨拶をしてきたのです。

「○○くん、バイバイ!!!」

 おそらく、これまでMちゃんとは一度も話したことはなく、たとえ通りすがりで合ったったとしても、雑踏ざっとうの中にまぎれてすれ違っていくような、単なる「顔見知り程度の関係」だったはずです。なのに、わざわざ私の名前を呼び止めてまで挨拶をしてくるなんて...しかも満面の笑顔で元気良く!...こちらも反射的に「あっ、、、こんにちは。」と笑顔で返すことはできましたが、いったい何事だろうと思って内心戸惑とまどってしまいました。

 だけど、同時に自分の胸がドキドキしていることにも気がついたのです。Mちゃんは特に可愛いわけでもないし、普段あまり笑顔も見せないおとなしい感じの子だし、正直、これまで一度も彼女に対して魅力を感じたことはありませんでした。
 にもかかわらず、たった一度、笑顔で挨拶あいさつされただけで、一瞬とはいえ、私はMちゃんを好きになりかけてしまったのです。人って、案外こんなに簡単に恋に落ちるんだな、と思いました。そして同時に「挨拶って、なんだか素晴らしい!」とも思いました。そして(もしかしたら、これまでの自分も周りの人に対して似たようなことをやってきたのかもしれない...)と気がついたのです。

 これまでは、あくまでも「自分のため」にやってきたつもりだったんだけど (もしかしたら、相手も嬉しい気持ちを感じていたかもしれない...)と思ったのです。そして(相手が女の子であれば、私に恋してしまった子もいたかもしれない...相手が男だったとしても、少なくてもイヤな気持ちにはならなかっただろう...)

 数日後、あの日のMちゃんの「笑顔の謎」が解けました。あの日は、とてもカッコいいイケメンの彼氏が出来た日だったらしく、嬉しさのあまり誰かれかまわず笑顔で挨拶しまくっていたようです。それを知ったとき、ちょっぴりガッカリした気持ちにもなりましたが、この一件でとても大事なことを教えてもらいました。

「これからは興味のある人だけでなく、もっともっと大勢の人に積極的にかかわってみよう。これを『M作戦』と名付けて実践し、みんなの嬉しい気持ちや恋心の発信源になろう!」

...と、決意したのです。

課題の分離
 アドラー心理学では(前出の)「課題の分離」は人間関係の単なる入口であり、目指すべき最終目的は共同体感覚を持つことであるとしています。

 人間は一人で生きているのではなく、さまざまな共同体(家族・学校・会社・地域・国・世界...)の中で多くの人とかかわりながら生きています。
 それぞれの共同体に含まれる他者を信頼し、共同体の中で自分が役に立っているという自信を持ち、かつ、その中に自分の居場所がある、と実感できる...これが共同体感覚がある状態です。

 つまり、共同体感覚は以下の3つの柱で成り立っているわけです。

  1. 他者信頼たしゃしんらい…無条件に相手(他者)を信頼すること
  2. 他者貢献たしゃこうけん…自分が共同体(他者)の役に立っていることを自覚すること
  3. 自己受容じこじゅよう…自分の存在を肯定し、共同体の中に居場所を確保すること

 例文C(Mちゃんの微笑み事件)によって、おそらく私は2番の「他者貢献」に目覚めています。もはや説明の必要もないとは思いますが、みずから「みんなの嬉しい気持ちや恋心の発信源になろう!」と決意し、実践していくわけですから。

 これは、例文A(人生のバースデイ)のときに自分で自分のライフスタイルを作り変えることで得られた「自信」がエネルギー源になっています。使えば使うほど増大していく永久機関のようなエネルギー源であり、この「自信」を獲得することも、いわゆる3番の「自己受容」の一つなのではないかと、個人的には考えています。(人によって色々な解釈があるようですが...)まずは、自分が役に立っているか立っていないかを意識することなく、とにかく人間関係の中に入っていくこと...個人的にはこれがスタートラインのような気がします。

 その結果として、例文B(遅刻されるトラウマ)の状況のように、ワリと頻繁ひんぱんに女の子から告白されるような男へと変化していきます。これはきっと、男女にかかわりなく「人としての魅力」が高まった結果ではないかと個人的には考えています。

 こうして、3番の自己受容から始まり、2番の他者貢献をて「人としての魅力」を獲得してきたわけですが、あと残る問題は1番の「他者信頼」です。

  1. 他者信頼…???
  2. 他者貢献…挨拶や笑顔など、自ら他者に積極的にかかわることで得られる「良い意味での影響力」。
  3. 自己受容…自分で自分のライフスタイルを作り変えることで得られる自信。

他者信頼について

「Mちゃんの微笑み事件」以降、意識して好意的に他者と接していると、当然、相手からも好意的なリアクションが返ってきます。おのずと良好な人間関係が築かれて「人は信頼できるものだ」という感覚が育っていく...個人的には、これで充分に他者信頼を満たしているような気持ちになれるのですが、多くのアドラー心理学研究者の話によると、どうやらそういうことではないようです。

 確かに、中には、せっかくこっちが好意的に接しているのに、悪意を持ったリアクションを返してくる人もいますし、こちらが好意的なのを良いことに、営業やら宗教やらの勧誘をかけてくる人もいます。こういった人たちを信頼することはできません。

 ですが、どうやらそれではダメなようです。

他者信頼とは?…「あの人は〇〇をしてくれるから・△△が得意だから信頼できる」とか「あの人は○○してくれないから・△△が苦手だから信頼できない」といったことではなく、他人を「無条件」で信じてあげること。(=他人の不完全さを認めて、良い方向に変わっていける存在であると信じること。)

 研究者によっては、言動・容姿・性別・宗教・価値観等にかかわらず、相手のたましいを信じてあげること...なんて説明しているケースもあります。理屈としては何となく理解もできますが、現実的に、かつ、具体的にはどういう状況なのか、内容が漠然ばくぜんとし過ぎていま一つピンと来ません。

 ただ、私の経験として2つほど例をあげれば...

<例文D-1>
 以前つき合っていた彼女の話です。彼女は、けっしていつも好意的だったわけではありませんでした。必ずしも私の期待に応えてくれるわけでなく、ケース・バイ・ケースで「それはあなたの問題でしょ? 私は知らない。」と言って突き放してきたり「分かった。必ず私が何とかする。」と心強いことを言ってくれたり、ある意味、そういう「ツンデレ」なところに振り回されていたような面もありました。
 当時は「信頼したいけれども信頼できない相手=信頼できないけれども信頼したい相手」の典型のように思っていました。最終的には別れてしまいましたが、その後、再会してからは「親友のような間柄あいだがら」になり、お互いに異性の友人として何でも相談し合える信頼関係を築くことができました。

 後から思えば「私の問題は私の問題、あなたの問題はあなたの問題」という風に、あたかもアドラー的な「課題の分離」をキチンとわきまえた接し方を、彼女は私に対してしてくれていたような気がします。

<例文D-2>
 また別の彼女の話です。まだまだ私が未熟だった頃、けっして別れることのない「完璧な恋愛」を追及した結果、とても悲惨な結末を迎えてしまったことがありました。(※どんな結末だったかは、ここでは省略します。)
 彼女に対して、私は常に「理想の恋人」を演じていました。(そんなことが可能なのか?)と思われるかもしれませんが、つき合い始めた初期の頃に、相手の心の動きをシッカリと見てキチンと分析すれば、だいたい「どんな男が理想なのか」分かるものです。
 要するに、私は、彼女とは本音でつき合おうとしなかったのです。それは彼女もまたしかりで、彼女にもそれなりの事情というか、何らかの思いがあったため、お互いに理想の恋人を演技し合いながらつき合っていたわけです。
 ただ、そんな表面上のつき合いの中で唯一、彼女に対して愛情を感じる瞬間がありました。それはいつも「男女のいとなみ」の後にやってきます。彼女の身体に触れるととても温かいこと、彼女の肺が膨らんだり凹んだりして(ちゃんと呼吸をしているんだ)と感じるとき、胸に耳を当てて聞こえる心臓の鼓動...これらはすべて彼女が生きているあかしです。
 お互いに理想の恋人を演じ合い、相手に本当の自分を見せていません。だけど、この身体の温かさや呼吸や心臓の鼓動に嘘はありません。ある意味、私がリアルタイムに感じ取れる彼女の真実がここにあるんだと思えて、彼女の生命そのものへの愛情を感じたりもしていました。

 これがいわゆる「たましいを信頼する」ことなのかどうか分かりませんが、なんとなく近いことのようにも思えます。このように、たくさんの人々と多彩な人間関係を構築していく中で信頼に値する相手とマレに出会えるようなものだったり、相手の生命そのものへの愛情のようなものが、アドラーの言う他者信頼なのかもしれません。