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豊かさとは何か〜孔子に学ぶ〜

 二千五百年も昔に生きた人でありながら、今でも充分に通用する数々の名言を残した孔子こうし。 彼が残した言葉から生まれた「儒教思想じゅきょうしそう」は現代社会にどのように関わっているのでしょうか?...もしも儒教思想を現代社会に生かすとすれば、彼の言葉や考え方をどのように生かせば良いのでしょうか?...
 また、孔子が残した「たみつとめ、鬼神きしんけいしてこれをとおざく」という言葉の真の意味を理解することで、夢を持てない日本の若者たちに、進むべく指針を与える手助けになればと考えています。


孔子が残した『論語』について

 孔子が残した『論語ろんご』について、その内容における最大の特徴としてあげられるのは、あくまでも「人としての生き方を追求した書物」であるという点です。
 たとえば...

・人は、何のために生まれてきたのか?
・死後の世界について
・神仏に祈ることの大切さ
・自然現象の摂理せつりについて

...ようなことについては、"ほぼ皆無かいむ"と言っていいほど語られていません。

孔子が残した『論語』の内容
 孔子は(どんなに調べても、どんなに考えても、分からないものは分からない。)といった姿勢で「鬼神・超能力・奇跡」のたぐいには極力ふれず、あくまでも現実のみを見て、人としての理想的な生き方を論じることに終始したのです。

たみつとめ、鬼神きしんけいしてこれをとおざく」
(人として行なうべきことに全力を注ぎ、神仏悪鬼しんぶつあっきたぐいは何もしないでソッとしておく)

 これは、孔子が残した有名な言葉です。実際の孔子の行ないは、祭祀さいしに対して精一杯の儀礼を尽くしながらも、そこに関してはほとんど語ることがなかったと言われています。神仏悪鬼を「存在しないもの」として完全に無視しているわけではなく、それなりに形ばかりのことはしていたのです。

「たとえそれが不確かなもの・・・・・・であっても、不確かなり・・のことはする」という姿勢は、孔子にも人間らしい柔軟性がそなわっていたことを表わしています。

  • 孔子が生きていた時代…神仏悪鬼しんぶつあっきたぐいは存在するらしいが、ハッキリとは分かっていない。
    (=少なくても、孔子自身は見たことがない。)
  • 現代の世の中…神仏悪鬼しんぶつあっきたぐいは存在しないことが、科学によってほぼ認められている。
    (=科学によって、それらの存在が確認されていない。)

 また、孔子は「奇跡」や「運命」といったものについても同じように考えていました。
 奇跡は「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」ことであり、運命は「決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない」ことである。そういった不確かなものに対する期待は夢見る程度にとどめて、もっと現実的で確かなものに力を注ぐべきだとしています。

 ちなみに、私(執筆者)の場合などは、定期的に宝くじを買う程度のことはしますが、競馬・競輪・パチンコなどのギャンブルは一切やりません。ギャンブルに「確実に勝てる」必勝法が理論的に確立されているのであれば手を出すかもしれませんが、勝ち負けの大半が「運」に左右されるものに、それほどエネルギーを注ぎ込もうとは思えないのです。別に、孔子を見習ってそうしていたわけではないですが、完全否定もせず、完全肯定もせず、人間らしい適当な柔軟性をもつ孔子だったら、きっと「それぐらいがちょうど良いと思うよ。」と言ってくれるのではないでしょうか?

忍びざるの心

『論語』の中で孔子は、人が生きていくうえで最も大切なことは「じん」であると説いています。

「仁」とは「ちゅうじょ」が合わさったものであり、「忠」は、人が生まれながらに持っている「真心や良心」のことを指し、「恕」は(自分がイヤなことは他人に押し付けない・他人のことを自分のことのように考える)などの「思いやり」を表わしています。

忍びざるの心
 この「恕(思いやり)」の心がけについて、のちの時代の孟子もうしは「忍びざるの心」という言葉で表現しています。これは(他人の不幸をそのまま見過ごすのは忍びない)と思う心と、それにともなう具体的な援助の行為を意味しています。

 この「忍びざるの心」が最も必要なのが、現代の日本社会における「格差問題」ではないでしょうか?
 たくさんの収入を得ている人たち(高額所得者)がいる一方で、同じ時間を同じように働きながら、非常に少ない収入しか得られない人たち(低額所得者)もいます。かといって、高額所得者が低額所得者に何らかの手を差し延べて救済するようなこともなく、ただ「見て見ぬフリ・見殺し」にしているだけの状況です。

 もちろん、難しいことも多々あるでしょう。
 自分たちの生活だけで精一杯とは言わないまでも、高額所得者の大半は、低額所得者たちに援助をするほどの余裕があるわけでもないでしょうし、仮に誰か一人に援助したとしても、それを聞きつけた大勢の低額所得者たちに「私も、私も」と殺到されても困るわけですから。また、たとえ援助したとしても、それが一回や二回では根本的な問題解決にはならず、援助は継続的に(できれば永続的に)続けなければ意味がない、ということもあります。

 しかし、本当にそれで良いのか?...という話もあります。たとえば「格差は、努力した者とそうでない者の当然の結果として生じる」という自己責任論もありますし、確かにそれも一理いちりあるのは否定できません。
 その他にも、ほどこしを受ける側のプライドなどたくさんの問題点があり、高額所得者が低額所得者に対して、個人的に「忍びざるの心」を発揮するのは、ほぼ不可能と言っても良いでしょう。
 要するに、個人の善意(=個人の「忍びざるの心」)だけでは、どうにもならないのが現代日本の格差問題なのです。個人の力ではどうにもならないのであれば、これはもう「政治の力」に頼るしかありません。

 現代の日本の政治家たちも、それなりにがんばってくれているとは思います。
 格差問題の大きな元凶の一つ「派遣法」について、正社員としての採用を増やす方向へと改正に次ぐ改正をくり返していますし、最近では(全国の最低賃金を時給1000円前後にする)を目標に、いろいろと調査したり知識人・関係者たちから話を聞いたりしているようです。
 ですが、それで本当に解決できるのでしょうか?
偽装請負ぎそううけおい」や「名ばかり正社員」などの問題や、某派遣大手による、通信費やらなんとか費やらで、意味不明な経費を給料から天引きしていた問題など、現行の法律をチョコチョコいじる程度では、見かけ上は変わっても実質は何も変わらないのではないかと思うのです。

 孔子は、政治というものに対して、こんなことも言っています。

 法律や制度を整えて、刑罰によって人をしばる政治では、人は必ず法網ほうもうをすり抜けるために恥ずかしい行ないをする仁(忠+恕)の心を持ち、みずからそれを実践する者が国を引っぱれば、恥ずかしい行ないをする人はいなくなる。

 つまり、現代日本の格差問題に対処するには、政治家みずからが、低額所得者に対して「忍びざるの心」を発揮しなければならないということです。たとえば、以下のような方法が考えられます。

  1. 国会議員・地方議員の給料を、時給1000円にする。(全国の最低賃金が1000円になってから。それまでは950円とか、その時点での最低賃金を基準にして給料を計算する。)
  2. 国会議員・地方議員は、個人の私有財産しゆうざいさん(家・土地・貯金など)をすべて国家に返納へんのうし、本人とその家族は議員宿舎で生活をする。(返納された資産は、低額所得者への定額給付金として分配する。)
  3. 会議中の居眠りや携帯電話遊びなどが発覚したり、明らかに議員としての資質に欠ける行動があれは、ペナルティーとして賃金カットまたは議員を辞職してもらう。
(※注:あくまでも、個人的な意見です。)

 実質的には、これだけで格差問題が解決するわけではありません。
 国家財政・地方財政に関して、議員の時給を1000円にすることで生じる人件費の削減や、私有財産の返納による収入は、まあ、大勢たいせいに影響がない程度の効果しか期待できないでしょう。居眠りや携帯遊びでの議員へのペナルティーなどは、格差問題には関係ありません。

 以前、ある政治家が「政治家の給料を大幅にカットして、一般のサラリーマンと同じくらいにしたら、政治家になろうとする人は誰もいなくなるよ。」と発言していたのを耳にしました。おそらく「政治家という仕事はそれぐらい大変なんだよ」ということが言いたかったのかもしれませんが、ちょっと聞き捨てならない言葉です。
 確かに、もしもそうなれば、現職の政治家たちは一斉いっせいに辞職するかもしれません。また、現時点である程度の資産を持っている人たちからは、新たな選挙の立候補者は出てこないかもしれません。ですが、たいした資産を持たずに低賃金で働いている人たちの中で、政治に関心があり、政治に関する知識と高いこころざしを持った人物はたくさんいるはずです。なので、少なくても「政治家になろうとする人は誰もいなくなる」ということはないはずです。むしろ、そういったこころざしの高い人たちのみ・・が政治家になって国を動かせば、世の中はもっと良くなっていくと思います。
 自分たちは安心してノウノウと暮らせるほどの高額な給料をもらいながら、まるで「他人事」のように格差問題に取り組むのではなく、みずから低額所得者の立場に身を投じたうえで、最低賃金が政治家本人の生活に直結するギリギリの状況で取り組んでこそ、本当の意味で「忍びざるの心」が持てるというものです。

 こうした政治家の姿勢が、近年ますます強まっている政治不信を打破するとともに、「忍びざるの心」をもって国を引っぱることで、企業のトップたちをはじめ国民全体の心も変わっていくと思うのです。

孔子の夢

 あるとき、孔子の弟子たちは「もっとお金を稼ぎたい」「出世して名誉が欲しい」「健康で長生きしたい」など、おのおのの夢と希望について語り合っていました。そして、弟子の一人が孔子にも「夢と希望」について尋ねたところ、孔子はこのように答えました。

「友人には信頼され、若者にはしたわれ、老人には安心を与えられるような人になりたい。」

 孔子が残した言葉をまとめた『論語』は、主に「個人としての人の有り方」について語られることが圧倒的に多いのですが、孔子自身が政治家でもあったことから、それは「個人だけでなく政治や社会の有り方」にも通じる内容であることも多いと言われています。
 そのことから、上記の言葉を政治や社会になぞらえて言い換えれば...

「国民がみな信頼関係で結ばれ、すべての年長者は若者から尊敬され、すべての人が安心して老いることができる社会をつくりたい。」

...ということになるでしょうか。これは、現代の日本社会における「福祉問題」にも通ずると思います。
 具体的に、どこをどうすれば良いのか想像もできませんが、たとえば「スウェーデン」のような福祉政策を日本でも取り入れるようなことが必要なのだと思います。

 不景気は、国民全体の「雰囲気」が大きく影響します。「不景気だ、不景気だ。」と騒いでいればますます不景気になるのもそうですが、もう一つの精神的な原因として、政治不信をベースとした「社会保障(福祉政策)への不安感」があるのは確かです。

 自民党だの○○党だの、首相を誰にするだの、次の選挙はどうだのと騒いで政治をさぼり続けるのは、もういい加減にして欲しいものです。政治家個人の、政治家という"職業"を維持することに必死になったり、政権争いにばかり力を注いでないで、みんなで力を合わせて政治を安定させることが、最大の景気対策になるのではないでしょうか?
 その上で社会保障(福祉政策)を充実させるようにすれば、派遣法やら最低賃金やらその他のことは、少し微調整するぐらいでも充分に景気は回復していくと思うのです。

 世界一の福祉国家「スウェーデン」を手本に政策を進めるとすれば、消費税を中心とした税金の負担が数倍に跳ね上がるので、一時的に景気に悪影響が出るかもしれません。しかし、その税金で社会保障を充実させて、国民から老後の心配を払拭ふっしょくさせることができれば、老後に備えて貯蓄する必要がほとんどなくなり、みんな手持ちのお金を使い始めるでしょう。
(※ そうしない理由は、一時的な景気の悪化によって支持率が下がり、次の選挙で自分が落選してしまうのを恐れているから...だろうと、私は想像しています。)

 結果として、景気はある程度は回復するでしょうし、国民には「生活への安心感」が生まれて、国民みんなが楽しく暮らせるようになると思うのです。万一、景気が低迷したままだったとしても「生活への安心感」が得られている分、最低でも「みんなの幸福度」は向上するので結果オーライだとも思うのです。

 孔子の弟子たちが夢見ていた「もっとお金を稼ぎたい」「出世して名誉が欲しい」「健康で長生きしたい」のように「自分が、自分が」と個人の願望を満たすことばかり考える政治家ではなく、孔子のように「みんなのため、国民のため」を第一に考える政治家が増えることが、日本の明るい未来のためには必要だと思うのです。

死後の世界・鬼神への対処法

 ある日、弟子から「死とは何でしょうか?」と問われた孔子は、こう答えました。

せいのことすらよく分からないのに、死のことなど分かるはずがない。」

 またある日、弟子から「鬼神きしんにはどう対処すればよいでしょうか?」と問われると、

「人に対処する方法すらよく分からないのに、鬼神に対処する方法など分かるはずがない。」

 と答えました。要するに、弟子たちからの質問を孔子はテキトウにはぐらかしたのです。

 このエピソードは、一般的に孔子の「現実主義」を表わしている言葉とされています。ですが、ただ単にそれだけではなく(この問答もんどうにはもっと深い意味があるのではないか?)という説もあります。
 たとえば、死んだあとに自分は「天国」にいくのか「地獄」にいくのか悩んでいる人がいたとします。
 生きている今、どんなに悩んでも仕方がないことなのですが、普通に考えれば、生きているうちに良い行ないをすれば天国へ、悪い行ないをすれば地獄へ行くことになると想像できます。

 ですが、もしかしたら本当は"その逆"なのかもしれません。ただ、生きている今、それが"逆"なのかどうかを知ることはできません。つまり、以下の4つケースが考えられるのです。

  1. 生きているうちに"良い行ない"をして、死後は天国へ行く。
  2. 生きているうちに"悪い行ない"をして、死後は地獄へ行く。
  3. 生きているうちに"悪い行ない"をして、死後は天国へ行く。(逆だった場合)
  4. 生きているうちに"良い行ない"をして、死後は地獄へ行く。(逆だった場合)

 何にしても、地獄へ行くのはご勘弁かんべん願いたいところでしょう。
 2番のように、当然の報いむくいとして地獄へ送られるのと、4番のように、良い行ないをしていたにもかかわらず地獄へ送られてしまうのとでは"どちらがマシか?"…という話にもなります。2番であれば自業自得じごうじとくなのであきらめもつきますが、4番の場合は(どうして私が地獄に!?)と思ってあきらめ切れないのではないでしょうか。
 ただ、そういう気持ちになるのは、自分が天国に行くため...つまり私利私欲しりしよく良い行ないをしていたからであって、死後のことなど考えずに純粋な気持ちで良い行ないをしていれば、たとえ地獄へ行かされてしまっても後悔などしないのではないでしょうか?

 たとえば「鬼神に対処する方法」として「いつもやりを持ち歩く」という方法をとるとします。ただし、鬼神に対して本当に槍が役に立つのかどうか誰にも分かりません。以下の3つのケースが考えられます。
  1. 本当に鬼神とはち合わせて、槍を使って撃退することができた
  2. 本当に鬼神とはち合わせて、槍を使ったけどまったく歯が立たなかった(やられてしまった。)。
  3. 鬼神とはち合わせることは一度もなかった
 1番なら良かった。2番だったら残念でした。ですが、おそらく普通はみんな3番になるでしょう。
 3番だった場合、役に立つのかどうか分からないとはいえ、いちおう備えそなえだけはしておいたので、それなりに"安心感"を得ることはできたでしょう。ですが、きっといつも槍を持ち歩くのは重たいし嵩張かさばるし、なにかと"不便"なことも多かったのではないでしょうか。

 何はともあれ、死後のケースにしても鬼神のケースにしても、本当のところは誰にも分かりません。生きている今の私たちには調べることすらできません。ならばせめて、死後のことや鬼神のことなど考えずに、ある程度なら分かっている「生きている今」に全力を注ぐのが最も良い生き方ではないでしょうか?

 死後のことは死んでみれば分かることだし、鬼神のことは実際にはち合わせてみれば分かることです(はち合わせることは多分ないと思いますが...)。そうなる前にあれこれ悩んでも仕方がありません。死後どうなるか分からない以上、せめて後悔だけはしないように、生きているうちは「良い行ない」を多くするようにし、槍が良いのか何が良いのか分からない以上、せめて身体だけでもシッカリ鍛えきたえて健康を保つ生き方をするべきではないでしょうか?

 いわゆる「人事じんじを尽くして天命てんめいを待つ」のような心がけを持ち続けることが大切なのでしょう。